「癒しブームの考察」

第2章;日本人の「心」に関する捉え方



●日本人の考え方の基盤  

藤永保氏は著書のなかで、日本人の考え方の特徴として、「心」や「科学」に ついて、以下のような指摘をしている。(参考文献27「こころの時代」の不安 p81 )

 「心」について、日本では、「病は気から」という諺にもなっているように、 「気」という独特の考え方がある。「気がかり」「気配り」「気を持たせる」等 の日常語に見られるように、日本では主として精神的エネルギーの意味に使う。 心気や心機という言葉もあるが、前者は「心持ち、心、気持ち、気分」、後者は 「心のはたらき、心の動き、気持ち」という意味を持つ。「心機一転何ごとか成 らざらん」などという言葉もあるように、気力さえ奮い起こせば何でも出来ると いった式の精神主義も生まれた。

私たち日本人は、このような歪んだ精神主義の もとに第二次世界大戦を戦い、結局は圧倒的な生産力を誇る西欧先進国(特にア メリカ)の前に惨敗を喫した。最終局面では、精神主義は神風待望論のような、 万一をあてにする迷信を生みだした。

 このような反省もあり、戦後の日本文化のなかでは精神主義は急速に衰え、反 対の科学技術主義への信仰が生まれた。この信仰が、戦後の日本の、急速な経済 成長を支えるひとつの柱となった。それがまた、日本人のうわべの無神論的傾向 を強化していることも確かだろう。

 こうして、戦後の日本社会は、急速に物質主義と功利主義の側に傾いていった 。その果ては、バブル経済とその崩壊となった。

 以上、藤沢氏の記述をひいて、日本人の「心」や「科学」の考え方について見 てきたが、しかし、科学万能・技術信仰一辺倒に見える現代でも、私たちの考え 方の底にはどこか伝統的な観念がしみついているように見える。

例えば「幽霊は 存在するか」との問いに対しては、私たちのなかの科学教育によって作られた近 代合理主義の側面が顔を出し、「存在しない」と答えることになるだろう。とこ ろが「迎え火を焚くのはなぜか」と聞かれたら何と答えるだろうか。ただの習慣 、風俗だからと切り返すのだろうか。宝くじを買ったあと神棚にあげる人は何を 思っているのだろうか。

つまり、私たちの考え方は一枚岩ではなく、いくつかの 別々の層から成っており、私たちの意識のなかには、精神主義の考え方が生きて いるのだ。  このように、私たち日本人は、意識するしないにかかわらず、「心と体は一体 」だとかアニミズム的な、日本に元々ある考え方に、慣れ親しんでいる。そして その無意識の秩序が、現代に生きる私たちの行動をも規定しているのである。



●息切れし始めた日本人

 日本コカコーラ・ジョージアは、90年代半ば頃から、今で言うところの「癒 し系」「なごみ系」タレントを起用したCMをオンエアしてきた。むしろ、ジョー ジアのCMから、「癒し系」「なごみ系」という言葉が広がっていったと言って も過言ではない。

 始まりはこうだった。バブル崩壊後、それまでがむしゃらに走ってきた世のビ ジネスマン・サラリーマン達に疲れが意識され始めた、1994年の秋、飯島直 子はジョージアのCMに登場した。黒いニットから片肌を出して、アップの彼女が 「こらこら」と、夜のオフィスでパソコンに向かう男に呼びかける。飯島直子のCM の他に、当時人気絶頂だった安田成美、“人妻”小手川祐子のバージョンがあり 、三人三様の持ち味で男たちに語りかけた。

しかし、飯島のCMは安田・小手川の 二人とは何か違う響きがあった。安田のCMはどこか知的すぎたし、小手川のCMは 勝ち気さが残った。飯島の「こらこら」は、男性に近付く隙を与えている、とい う意味での「やさしさ」だったと思う。

「一生懸命も休み休みしてよね、ジョー ジアで一休み」そして飯島は“疲れた男たち”の圧倒的支持を得た。

 島森さんは、ジョージアの一連のCMを、以下のように考察している。「CMで描 かれるのは、彼女が声をかけずにいられない、頑張ってて、疲れてて、やすらぎ を求める男たちのイメージだ。たいがいの男には身に覚えがあり、けれど、切羽 詰まっていますぐ慰めがほしいわけでは本当はないだろう。“疲れている男たち ”というイメージが“疲れを癒す女”という幻想とクロスして、結果的に「やす らぎ」が商品になる。」
 「現代の確かに疲れているんだろう。が、少なくともCM に登場する男たちの“疲れ”は、見る限りたかが知れている。そしてたかが知れ ている男たちに限って“疲れ”を言いたてる。が、飯島直子は知ってか知らずか 、すすんでその甘えにのっていく。」と。

 ジョージアのキャンペーンとして、彼女がCM のなかで袖口に頬をすりすりしてみせた「やすらぎパーカー」プレゼントには、 3435万152通、第2弾の「がんばってコート」には、4403万5861 通の応募があり、ともにプレミアム史上の記録をぬりかえて、現在も破られてい ない。のべ人数にすれば、日本国民の2/3が応募し た計算になる。それほどまでに、私たちは「やすらぎ」と「頑張って」という慰 めを求めているのだろう。

 飯島直子は、男たちの身勝手な妄想(怒って見せて、 慰める。受身の母性・姉御肌・子猫のように甘える“女”)体現するマリアであ ると同時に、やさしさと慰めがほしい時代のヒロインとして、女たちの支持も得 たのだった。

 このような「癒し系」「なごみ系」の路線は99年以降、優香にも受け継がれ 、2000年秋からは、吉本興業の人気タレントが勢ぞろいした、「明日がある さ」キャンペーンが始まっている。ジョージアは、このCMのコンセプトは「現代 に生きるすべての働く人を応援歌」だとしている。



●阪神淡路大震災とオウム事件

 人々が疲れていると感じ、「癒し」が盛んに取りだたされるようになった社会 的な背景として、1990年代を設定する。戦後、欧米から物質主義や功利主義 を表面的には取り入れたが、個人主義が根付いていない日本では、公の面でもト ラブルが続発、誰もが科学や経済力を過信し、バブル経済とその崩壊へつながっ た。

 そのバブルが崩壊し、仕事や国や社会的な価値観も崩壊したことで、私たちが ようやく「頼れるのは自分自身」「自分とは何か」を問い始めようとした矢先に 、事件は起こった。1995年の二大事件、@「阪神淡路大震災(1/17)」 と、A「オウム事件(3/21)」である。

@阪神淡路大震災;240万強の被災者  震災から数年が過ぎ、神戸の街も、あれほどひどかった震災当時をイメージす ることは難しいくらいだ。しかし、震災後、建物や道路は整備されても、ちょっ とした物音や揺れに、驚愕的な精神反応を示すこともしばしばで、物理面とはう らはらに、精神面では「心」が癒されたわけではないことを物語っていた。

建物 など、目に見える復興はある意味対応しやすい面もあると思う。しかし、心の傷 は、個別的であり、家族・地域・社会とも深くかかわっているため、対応が難し いと思う。  自然災害や人為的災害による心の傷は、ストレス障害となる。当時、仮設住宅 で避難生活を送る人が多数いて、被災者の心の傷は抑圧され、身体化して心身症 の患者は増加していた。

また、震災とともに起こった喪失体験は、家族関係や親 子関係のトラウマを顕在化させ、離婚問題にもつながっていた。数多くの人が職 場を失い、経済的な悩みも抱えている。

 こういった悩みやこころの問題に対応していく必要性のなかから、本当の意味 で、必要な癒しとは何か、が考えられるようになったと思う。その際、「心のケ ア」という言い方が一般に普及したが、「治療CUREではなく、ケア(世話)CARE としたところがポイントで、具体的な何かを相手にするのではなく、心というあ いまいな対象を世話するという意味が込められているのではないか」と、神澤創 氏は述べていたが、まさしくそうだと思う。

心が対象としてあいまいなのは、目 に見えないということ以上に、心は個別的で、さらに家族や地域や社会とも密接 に関わりあっており、一筋縄ではいかないからだろう。

 震災後、これから日本が考えていくべきこととして、ストレス障害の内容把握 と対応の仕方、訓練されたボランティアや専門家の育成、逆に、一般のボランテ ィアの在り方と受け入れ方、柔軟で人間的な対応が求められる行政の在り方、さ らに人々の心を癒すにはどうしたらいいのか、などということが問題とされてい た。


Aオウム事件  80年代の中頃に小さなヨガ道場として出発したオウム真理教は、原始仏教・ キリスト教・オカルトなどの精神世界を混合させた超能力や終末論を説き、迷え る若者の心を巧みにコントロールしながら、ハルマゲドンに対しサリンなどで武 装化を進め、反社会的宗教へと変貌を遂げた。

 このようなオウム真理教をめぐる問題のひとつとして、信仰と科学について当 時はさまざまな議論があった。教団の活動を支えてきた上層部の信者たちに、理 工系の大学や大学院出身者が少なくなかったという事実に世論は戸惑っていた。 文系出身者が宗教に傾倒するのなら理解できるが、科学的批判精神を兼ね備えて いるはずの人たちが、熱心に信仰し、教団に尽くしていったからだ。  科学が進歩すればするほど、宗教は衰退するのではなく、科学の言葉で理解で きない事柄を「信じる」という方向に進んでいくのかもしれない、ということが 認知されるようになった。

それと同時に、高学歴社会のなかで、エリート街道を 直進してきた者には、自分の専門外のことに思いを馳せる能力が育ちにくいのか もしれないということと、学問をそれだけですばらしいものと盲信するのではな く、さまざまな知識を統合するのは自分であることを忘れてはいけないことも、 この事件から学ぶこととなった。

また、人々が、自分の存在を見とめてくれるも のとして宗教を見ており、癒しを求めているという事実も露呈した。  オウム事件の前後で行われた、「宗教とか信仰とかに関係する」アンケート調 査(参考文献37、p130)において注目すべき結果が出た。「宗教とか信仰 に関していると思われることがらは、何も信じていない」という人が、すべての 年代層において、突然増加したのである。これは、オウムの一連の事件によって もたらされた宗教アレルギーであると思われが、日本人の宗教に対する拒否反応 は強くなったように思う。

 古来、アニミズム的思想を持ちつづけている日本人が「無宗教」であると自分 達では言いながら、「癒しの科学」として、心理学や精神医学を求めている、そ のような側面がだんだんと見え隠れするようになった。「癒しの科学」に私たち が求めているものは、自分の人生や生き方に対する示唆に富んだ答えであって、 本来なら宗教が担ってきた分野なのかもしれない。

科学万能・技術信仰一辺倒に 見える現代でも、私たちの考え方の底にはどこか「こころ」を重んじる、伝統的 な観念がしみついているのだ。


   私たちは、阪神大震災とオウム真理教事件をきっかけに、「癒しは必要なもの であること」「私たちが癒しを求めていること」を意識するようになった。「自 分」と結びつけてさまざまな報道を捉え、「こういう危険もあるのか、もしかし て自分にも・・・?」と考え、自分のこととして取り入れるようになった。

つま り、私たちが、精神的なストレスを自分たちの身に迫る危険として考えるように なったり、「心」を重要視するようになるきっかけとなった言えるのではないだ ろうか。  自分自身への興味が高まったり、よりよい価値を自分や自分の人生に求める動 きが、「こころ」に対する期待を妙に大きくさせている側面がある。「心」を重 要視するあまり、心に過剰な期待を掛けすぎ、願望と現実の見境が無くなってし まっている危険性もあるように思う。しかし、そういった興味の持ち方は、いさ さかゆがんでいる(偏っている)面もあるように思えてならない。

 このような状況のなか、カウンセラーを志望する人は年々増えているという。 街の書店に並んでいるいる心理学関係の本の内容(とその比重)と、実際に大学 で講義されている内容(講義題目)とのギャップが甚だしい。

 しかしそういう私自身も、高校の頃から思い描いていた「人間科学科」(心理 学・哲学)のイメージと、入学後講義を受けるようになってからの現実の大きな 違いに戸惑い、期待外れと思っていた時期もあったことを思いだす。専門の講義 で受けた認知心理学の本はほとんど見かけない。大学の講義と重なる本といえば 、性格心理学・発達心理学くらい。あとは、高校生の私が思い描いていたような 「心理学」の本――性格診断・拒食症・自閉症・神経症などの精神病状を扱う手 記の類、多重人格・いじめや不登校を扱うもの、青年期や親の問題、人生訓・処 世術、さらには占星術やオカルトまがいの心の指南書、そのすぐ横にフロイトや ユング、臨床心理学、カウンセリング――が、ごった煮のようにしてコーナーに 収まっている。

 どの学問も、アカデミックな内容と、大衆向けの内容とのあいだに多少の隔た りが生じるのは仕方がないことだが、こと心理学に関しての一般大衆の誤解は行 きすぎだと思う(反省をこめて)。

藤永氏が「心の神秘教へのあこがれ、不安が 心理学への関心の最大公約数をなす」(参考文献27p4)と指摘しているよう に、私たち一般大衆が「心」に期待するものを、心理学に重ねて見ている結果だ と思う。  たしかに、偏っていた・・・心理学に対し偏った興味を持ち、偏った期待をし ていた。これは私自身の正直な反省だが、私だけでなく、私たちが「心理学」( もしくは心理学の響きからイメージされる「心」)に、もしくは「心のはたらき 」に、期待しているものは、一体何だったのだろうか。

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